努力の美徳と錯覚
今回は自己啓発用のメモになります。
また、今回のメモをはじめ当ブログは自分の振り返り用のメモや備忘録であり、
自分と同じような境遇に陥っている人が動き出すきっかけや動く際の行動心理に繋げられたらいいなと思って記載しています。
まだ自分自身が動きながらのためここに書いてあることが正しいというわけではないですが、同じ心境の人に届けばいいなという思いです。
前置きはここまでにするとして、今回は努力に対する美徳感覚に対しての話です。
これまで自分が生きてきた状況を細かく説明するとそれだけで記事になってしまうので今回は端折りますが、ざっくりと概要を説明すると、
1.学生時代は全然勉強してこなかった(自主的に勉強する習慣がなかった)
2.部活とかも特に打ち込んでいない
3.そもそも大学行ってない(ただし、完全に後悔しているわけではない)
4.卒業してからも現状維持でダラダラと過ごしている
5.やりたいことは特にない
重要なポイントを搔い摘むとこんなところです。
まあよくいる底辺人間ですね。
イメージとしては、Fラン大学の学歴を借金して買っていない、ニートではなくて自分で生計は立てているぐらいの立ち位置です。
こんな経歴を辿ってきている自分なわけですが、このままだと将来がないということと、最近は年齢的に何かをできる期限が迫ってきていることから、今の状況を打開すべく、怠惰という底なし沼を抜け出すために行動を起こしています。
(Gitの話もその一環です。)
とはいえそこは今まで何もしてこなかった人間。
勉強とか効率とかもとんでもなく悪く、なかなか進捗が上がらないのが現実です。
色々と更生のためにサポートを受けている友人からも厳しい一喝を受ける始末。
まあ自分が悪いのは分かっているのでしょうがないんですけど。
これぐらいやらないと変われないのも分かっています。
ただまあ、こういうことを周りに相談すると、大体の人が決まって口を揃えるのが
「やること自体に意味がある」
「やってるだけ十分」
「やらないよりよっぽど良い」
という、ポジティブな表現です。
自分も逆の立場だったら言ってると思います。
しかしこの言葉、ポジティブで好意的な印象ですが、実はその裏には無責任な暴力も含まれています。
環境や内容にもよりますが実際には結果主義であることが多く、そこに至るまでのプロセスは考慮されないということです。
例えば試験なんかは、合格基準に満たなければそこにいくまでにいくら努力していても決して合格にはならないです。
本来仕事での評価も一貫してそうあるべきで、やろうとしていること、やるべきことができたかどうか、それが評価の基準となるわけです。
しかし周囲の人というのは「そこまでやったのなら十分だ」とか「やろうとしているだけ立派だ」とか、当人からしてみればあまりにも無責任な言葉を投げつけます。
本来建設的に考えるのであれば「何が足りなかったのか」や「現実的に本当にできることなのか」とか、そういったアプローチをかけるほうがよほど効果的です。
もちろん本人の行動内容や心理についてどれほど知っているかによっても変わってきますが、全体的に努力すること自体への美徳意識が強すぎると思います。
また、これによってまだ成果もあげていないのに「自分は頑張っているんだ」と錯覚してしまうことがあるのも事実です。
(少なくとも自分はそのタイプです。偏見だったら指摘してください)
もちろんそこを錯覚してしまうのは自身の弱みでもあるのですが、あまり無責任に「君は頑張っているよ」というのも良くないのではないかと思います。
とはいえ自分自身も同じ感覚を持ってしまっているため、少しずつでも意識を変えていけるよう努めていきたいと思います。